祈りのお作法
今日はイースターですね。
キリスト教では、イエス様が死んでよみがえってくださったので、神様と人間の関係が回復し、人間は大胆に主の御前に出ることができるようになったと教えています。かなりはしょりましたけど。
それで、祈りというのはクリスチャンの喜びであり神様とお話をする大切な役割なのです。でも実は私は祈るのが苦手です。理由は、神様が離してくれなくなるので、少し怖くなるのです。
祈りは誰でもできることで、どんな形でも喜ばれます。赤ちゃんが親を求めて泣くような祈りでも、神様は「どうしたの〜」と駆けつけてくださいます。思春期の反抗期のような祈りでも、神様に向かう限り、忍耐強くつきあってくださいます。
しかし、実は軍事会議に出席するような祈りもあります。ボディチェックから始まり、奥まった所へ入っていかなければ聞けないことです。最高司令官である神様のお考えを伺い、与えられたミッションをどうこなすか、作戦を練ります。ここまで入るには、手順があり、少し問われる資質というか資格があります。あんなに未熟だった二十歳前からどうして私は入れちゃったんだろうと少し謎ですが、未熟でも資質があると、手順さえ踏めば入れちゃう面もあるんですね。あの頃の私に「この身の程知らず!」って言いたいけれど、神様がそれはそれはお喜びになったのも知っています。
あの頃、踏み込んでしまってから「ヤバイところに入ってしまった」と思い、逃げてから(←)ずーーーーーっとお呼びがかかっていても目を背けてきた私。欲しいものがあると、淡々と手順を踏んで欲しいものだけサッと取って帰るというひどいことをしてきました。神様すみません。牧師の妻になって「万紀子さんが祈ってくれたら聞かれるから」というような代わりに祈るというときにもこんなでしたから、どんだけ不遜なんでしょ私。
神様に怒っていたからなんですけどね。
ここ数日、「もう怒りは取り去ったはずだが」というお呼びがツンツンツンツン来ているので、はい…もう怒っていません…祈らない理由はありません…ともじもじしております。お作法忘れちゃった!とか言いたいけど忘れてません。
御前に出るには、この2冊の本に書いてある通りの手順を踏めば良いです。
◇いと高き主なる神様がどのようなお方であるかを確認します。
◇私の身分を確認します。
◇私が神様に抱く思いに濁りがあれば濾して除きます。
◇神様の御心を伺います。
◇必要があれば願います。
…ってここまで書いて、全然簡単じゃないわと気づきました。今までこんなにシンプルなのにどうしてみんなできないんだろうと思ってましたけど、これカウンセリングがシンプルなのにどうしてできないんだっていうのと同じでした。シンプルであることと簡単であることは違いますね。
というわけでお呼びがかかっているので御前に参じます…。