霊が見えない万紀子の除霊日記@函館

霊は見えませんがご依頼が来れば除霊しています。基本は心理カウンセラーです。パーソナルトレーナーもしてます。夫はキリスト教の牧師です。

決定権を奪いにくる者

正直なところ、私は見えない世界のことはよく分かりません。キリスト教では、死者の霊はあるところに集められ眠っているけれど、そこから呼び出して会話をすることができる霊媒師がいることも認めています。ただし霊媒師と関わってはいけないと聖書に書いてあります。

なので、親戚の誰々が憑いてるって言われたんです、とご相談が来ても、本当に親戚の誰々さんか、そのふりをしている何か別の者か、全く関係ない何か霊か、どれでも良いようにという前提で関わります。

あと、生霊と呼ばれるまだ生きている人が念(?)を飛ばしてくるみたいなものは、死者やそのふりをする霊よりは呪いに近いと思って扱っています。

どちらにしても、憑いている「何か」は相手にしません。本人の境界線が整うと、自然に離れることが多いからです。

しかし先日、強い意志と執着を持って決定権を奪いにくる者がいました。その「何か」が憑いている方とは以前一緒に出張に出かけた時に、ホテルで朝食をとりながら話している時に「霊感のある人に憑いてるよと言われました」という話題になりました。私は何気なく「ではあなたの内側をあなただけにしましょうか」と言うと、その方が「いやだ」と返事をしました。ハッとしたようにその方が「え?いやじゃないです。なんで私今いやだって言ったんだろ?」と慌てます。と、いうことは…。ゾワ。その「何か」は取り憑いて決定権に踏み込み、その方の意思と違うことをさせることもしばしばあったのでした。カウンセリングも含め、その「何か」を出し、裂かれて出されていたご本人と残されて従わされていたご本人を縫合するという、「そんなんアリ?」と思うような処置もやってのけ、とりあえず彼女は自由になりました。

その時から1年以上経ったのではないでしょうか。先日、その方が再びカウンセリング勉強会で相談を出されました。(認定カウンセラー養成講座を卒業したメンバーが参加できるカウンセリングを練習する場です。メンバーがお題を出し、順番にカウンセリングしていくスタイルです)夢を見るというのです。津波の夢、追いかけられる夢、戦う夢。そして、やはりまた霊感があって見える人には「悪気はないけど執着されているよ」と言われたと。つまり、ご本人は抵抗してまた入られないように逃げているけれど、「何か」が執拗にまた入ろうとしているのが夢に出てきていたようです。そこでまたカウンセリング。境界線の破れを修復することと、「悪気はない」は言い訳にもならないし、だからといって他人の権利に踏み込んで良くなるわけでもないことをしっかり確認しました。いくつかのハードルを越えて彼女は夢を見なくなり、「なんか相手も納得した感じがします。ごめんねって言ってる」とのことで、一件落着?あ、「ごめんね」に対しても「もういいよ」も言わないようにしましょうね。「いいよ」は開けてしまうことになるので。

いやいやすごい執着でした。こういう霊的な「何か」は、許可によって入り込むことがあります。やり口はかなり卑怯。彼女は「何か」に奪われて自分の意思で生きてこれなかった何十年かの喪失を悲しみながら、回復しつつありますが、失ったものは大きく、回復に時間がかかるでしょう。悲しみも怒りも当然です。早く回復できますように。

霊は見えない私ですが…

霊が見えないですが必要があれば除霊しています、万紀子です。

私は基本霊が見えませんが、時々他人の肩の上の空気が歪んで見えるというか、そこだけ重みのある空気が漂っているように見えることがあります。お店に入った時に、部屋の隅に何か淀んだ空気を感じたり、ホテルの部屋に入った時に人の気配を感じたりすることもあります。なんかやだなぁと思いますが、あまり自分の感覚を信じないことにしているので、放っておいています。

だって「あの、肩に変なの乗ってますよ」とか言われたら嫌でしょう?変質者を疑われてしまいますよ。あと、私が変な何かを感じるからといって、事実そこに何かがいるとも限らないじゃないですか。私の勘違いかもしれないし。なので、基本黙っていますよ。

カウンセリングやトレーニングの最中に「憑いてると言われた」という証言を得られたり、明らかに本人じゃない人が今しゃべったな、という場合に初めて手を出します。

最近チラチラありますね。カウンセリング中じゃないので、雑談の中で外したり、トレーニングの前にお体を見ながら外したり。そんな中、外せなかったり、外してもすぐ別なものが憑いてしまう方は、もしかしてちょっと霊障を楽しんでるのかなと思ったりする節があります。怖いもの見たさとか、心霊スポットにわざわざ行く心理に近いものがあるのかなと。それは私自身にも少しあって、パチッと霊障を外せると、ゲームクリアのような達成感があります。トラウマを外せた時と同じですね。データも取れるし、ふむふむこういう場合はこんな症状が出るのか、なんて好奇心と探究心が盛り上がります。ただね。私は外す方なので無傷ですが、憑かれてしまう方はなんらかの害を受けるのですよ。多分私と同じ好奇心ですが、霊を寄せてしまうのは危ないです。自分に害があるのに霊を寄せてしまう心理は、本人のためにならないと感じています。

一体どうして、霊障を呼び寄せてしまうでしょうか。それは、カウンセリングの領域ですよね。後ろ側に隠れている本当の気持ちを探る必要があります。霊障もご相談承りますが、私は霊に対して働きかけることはしません。だって見えないもん。なので霊障を受けているご本人の心の状態を扱います。ですからそのつもりでいらしてくださいね。

 

カウンセリングご予約ページ

https://www.reservestock.jp/page/reserve_form_week/27940?course=64450

生霊に憑かれやすい人≠恨みを買いやすい人

生霊(いきりょう)が憑いてるよって言われて…

そんな話をよく(?)聞きます。で、過去うかがった、生霊に憑かれたという方々、共通点があります。優しい。周りの人を何かと気にかけて、情が厚い。

生霊に憑かれるって、パッと聞くとどんな酷いことしたんだ、恨まれるようなことしたのかな、と思うじゃないですか。違うのですよ。コントロール欲求の強い人が生霊(?)を飛ばすのですが、人のネガティヴな気持ちさえ一旦受け止める優しい人が、受け止めてしまうのです。なんだかね、話を伺っていると、呪いだよねこれ、と思います。生霊(呪い)を飛ばす人のメンテナンスが必要だと思います。

しかし、生霊を飛ばす人は、自分が飛ばしている自覚がない場合も多く、本人もただ体調を崩したりして、みんなが不幸です。そして、生霊を飛ばしてしまう人こそ、誰も「あなたが飛ばした生霊が憑いてた人がいるよ」なんて教えてもらえないわけです。孤独になっていきます。そうするとどうやらますます生霊を飛ばすようになるらしく。不幸のループにハマっていきますね。

 

キリスト教では、いつも相手の祝福を祈りなさい、と勧められています。生霊じゃなくて祝福を飛ばすのです。もし相手が祝福を受け取るに相応しくなければ、祝福はあなたの元に帰ってくると教えます。生霊は、飛ばして相手が受け取っても受け取らなくても、飛ばした人が不幸になりますから、多分祝福も、相手が受け取っても受け取らなくても、幸せになるのだろうと思います。私はよく、祝福を飛ばしています。

 

さて、生霊を受け取ってしまう人。先程優しい人だと書きました。以前私も「優しいからその辺の変な霊を拾うんだ」と言われた話を書きました。この「優しい」は、「相手に自分を寄せすぎる優しさ」です。「一線引いて相手に自分の足で立たせる優しさ」の方が、生霊や呪いを受けないようです。これは「境界線を引いた優しさ」です。「相手に自分を寄せすぎる優しさ」は、「自分の境界線内に受け入れてしまう優しさ」なのです。

ご遺体をよく見る機会がある刑事さんは、ご遺体を見たときに「かわいそうに。どんなに苦しかったろう」と気持ちを寄せては、連れ帰ってしまうからダメなんだおっしゃっていたのを何かで読みました。「こんなに早く死んじゃダメじゃないか!」と叱るような気持ちを向けるのだそうです。どちらも、優しいですよね。でも、気持ちの寄せ方が違います。

心の境界線をきっちり引いていくと、生霊や呪いを受けなくなります。あら。これは霊障に遭わなくなるのとも共通ですね。

 

境界線をしっかり引く必要があるときは、カウンセリングを受けてくださいね。

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依存症の人は霊感が強い人が多い

これは全く個人的な現場感覚ですが、依存症の人には、霊感が強い人が多いなという印象があります。依存症の人と霊感が強い人の共通点は、①境界線が壊れている、②繊細で敏感、です。育った家庭で親にコントロールを受け、自己決定権を奪われた人、親の感情ケアをさせられた人、放置されて愛情に飢えて育った人は、境界線が壊れています。他人の責任まで自分の責任だと思ってしまい、人外まで背負ってしまいます。また、鈍けりゃ良かったのに、繊細で感じ取ってしまうのですよ。優しさにつけ込まれます。自分で抱えきれなくなったとき、発散できたものに依存します。他人の影響を自分で断ち切れないので、何かにのめり込むことで相手に関係を断つよう仕向けたり、自分はあなたの期待に応えられませんよと、無能の証明をする場合もあります。それでも離れないかどうか試していることもあるようですが、とにかく「自分のことを自分で決めていない」状態です。幼い頃に奪われてしまっているので、どうやって自分で決めて良いかすら分からない状態です。

こういう状態は、人外の影響も受けやすく、よく何かを見てしまったり、感じたりします。自分の身を守れない状態ですから。人外からのちょっかいを受けてしまう状態です。家の壁に大きな穴が空いているので、人でも霊でも出入り自由、と言えばイメージがしやすいでしょうか。霊は風のようなもので、家の外で吹いても分かりませんが、壁に穴が空いていると寒さを感じますよね。

私がカウンセリングで行うのは、壁を修復する作業です。しっかりとした壁に囲まれた家の中にいれば、風も入ってきませんし、泥棒も入れません。脅かすものがいなくなれば、安心して冷静に考えることができます。依存症の人は、もう柱しかない家の中(?)で弱っている状態なのです。いつ泥棒に襲われるか傷つけられるかと怯えて、風雨にさらされて弱りながらどうして良いか分からず、いっとき忘れられるものに没頭します。安心できる壁に囲まれた安全地帯と回復が必要です。依存症の人は、マッチ売りの少女が凍えて売り物のマッチに火をつけて夢を見ながら死んでいくのと同じことをやっています。凍えてるのに「売り物のマッチを燃やしちゃダメでしょ!」とか言われたって寒いんだもの、火をつけますわ。必要なのは暖かい部屋とご飯でしょう。依存症の人に必要なものをちゃんと見つけて、それを手に入れることができたら、あるいはやめられるかもしれません。あるいは、というのは、「うっせー!マッチに火をつけさせろ!寒くなんかないんだ!」と言う人も多いから。寒くなければマッチいらないでしょ。でも寒いと認められない。ここは、本人に乗り越えてもらわなくてはならないところです。寒い、と言えたら、かなりの前進です。今日は霊障というよりは心の壁について書きました。心の壁が壊れていると、霊障も受けやすいし依存症にもなりやすいです。

安心して過ごせるようになったら良いですね。

カウンセリングが必要でしたら↓

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霊を相手に話をしない方が良いと思った話

私はほとんど霊を見ることはないのですが、聞こえたり気配を感じたりはします。10年近く前、一時期しょっちゅうまとわりつきに遭っていたことがありました。少し遠い所に仕事で月に一度通っていたのですが、その途中に何かスポットがあり、車でそこを通りかかるたびに何かを拾っていたようでした。仕事先に霊感の強い人がいて、「また変なの拾ってきたね。アンタ優しいからねぇ」と言われていました。

その頃、自分が「優しい」という意味がよく分かりませんでした。今なら分かります。相手に寄せすぎる傾向があるのです。境界線を引けるようになってだいぶ減りました。

分かっていなかった当時、ある日、その仕事の帰り道に例の場所を通りかかった時、何かが車にひゅっと乗ってきた感じがしました。「寂しい…寂しいよ…」という念のようなものを感じました。運転しながら、「ひいいいい((((;゚Д゚)))))))」と恐怖が走ります。しかし待てよ。この霊は寂しがっているのか。もしこれが幽霊で、死んだ人の魂ならば、ここでイエス様のことを伝えてみようじゃないか。クリスチャンとして、セカンドチャンスはあるのか問題の答えが得られるのではないか?と考えました。

キリスト教では、イエス・キリストを神として信じれば救われると一般的に言われており、信じなければ死んだ後裁かれるとされている(地獄に行くと信じている人も多い)。では、知らずに死んだ人は有無を言わさず地獄行きなのか?など議論されており、死んだ後にもチャンス(セカンドチャンス)があるはずだと考える人もいる。私はちょっと独特な考え方をしているがまぁそれはここでは重要でないので省く。

そこで私はそこにいる「何か」に向かって「寂しいのなら、全ての人を愛してやまないイエス・キリストが」と念じた瞬間、炎が燃え上がるようにブワッと「何か」が暴れて襲いかかってきました。運転しながら「あっこれはヤバイやつだ。死者の霊のふりをした悪いヤツだ」と思い、「主イエス・キリストの御名によって命ずる。離れなさい!主よ私の運転をお守りください!」と大きな声で祈りました。その「何か」はシュッと消えました。

どうして車を止めなかったかって?街灯も少ない真っ暗な森の中だったからですよ!はー怖かった。

とりあえず、「何か」たちにとって私は敵なのでした。仲良くはなれないし、会話もしてはいけないし、関わらないのが良いようです。

好奇心で変なことをしないよう気をつけましょう。

オカルト現象の大部分は潜在意識の扱いで解決する

私個人としては、クリスチャンなので神様は存在すると信じていますし、神様が存在するなら霊魂も悪魔も存在するだろう、と考えています。ただし、じゃあその辺のスピリチュアルも信じるのかといえば…うーん。私は神様がこの世界をシステムで回していると考えているので、見えないことにもシステムが及んでいると考えます。

星を読んだり手相を見たりするのは、統計から来ているのである程度当たるでしょうし、私はそれもシステムの読み方のひとつかなとは思っています。ただ、人はすぐそういうものに依存したくなるので、キリスト教では、星や手相を見るくらいなら聖書を読んで祈れよ、と言いますね。聖書を読んで祈る方が、難しいんですけどね。

例えば私は両手の親指の第一第二関節揃って複数仏眼相があります。神秘十字もあります。仏眼相と神秘十字線は霊感や閃きが強い人に出る相だそうです。仏眼相を片手にひとつ持つ人で20人に1人程度だそうですから、両手の親指の両関節しかも複数仏眼相がありそして神秘十字線まであるとなると、相当なわけです(全部インターネット調べ)。しかし私にとっては、「それで?だから?」です。というのは、私が霊感と直感が人一倍どころでなく強いのは、手相を見るまでもなく分かっていることで、私がそうであることが手に出ているだけのことです。別に特別それを活かそうと思わなくても、カウンセリングをしていれば霊障を抱えた人がいらして、結果霊障を扱うようになり、このブログを書くに至るわけですから、私は私を生きるだけ。

とまぁこれくらい強くなければ、霊障なんか扱えないのです。特別になりたいための「霊感が強い私」探しなんかやめな。

ついでに、霊感はかなり潜在意識が関わっています。やっと本題。「人でない何か」が人間に干渉するときには、「境界線の破れ」を足がかりにしてきます。人の心にはバリアがあり、それを境界線と呼んでいます。バリアの内側は自分の領域で、その内側は自分の意思で自由に決めることができます。例えば、誰かが石を投げて家の窓ガラスが割れたら、そこから冷たい風が入ってきて家が暖まらず、放っておけば泥棒が入ってきますね。そのように、誰かに傷つけられて心のバリアの一部に穴が開くことがあります。穴が開くと、外側からの干渉から身を守れなくなります。大抵は、人からの干渉から身を守れなくなりますが(その辺はアメブロを読んでねhttps://ameblo.jp/kamisamanorule/)、時々「人でない何か」が干渉してくることがあります。これが霊障です。

例を挙げましょう。幼い頃、親に「あんたがいなければ離婚できたのに」と言われたとしましょう。ここで本人は「私はいらない子なんだ。いない方がいいんだ」と受け取ってしまうと、会う人会う人が自分を拒絶するのではないか、私はこの場にいてはいけないのではないかと常に不安を抱えるようになります。そうすると「あなたは大事な友だちだから、嫌なことでも引き受けてくれるよね?」という自分にとって嫌な、良くないことも断れなくなります。セクハラをされても告発できなかったり、いじめに遭ったりします。これが、人からの干渉から身を守れない状態。同じ条件で親に「あんたがいなければ離婚できたのに」と言われ「私はいらない子なんだ。いない方がいいんだ」と受け取ってしまった結果、誰もいないところから自分を呼ぶ声が聞こえたり、心霊スポットに行かなくても「人でない何か」を拾ってしまったり、まとわりつかれたりといった霊障が始まることがあります。「人でない何か」も、「あなたが必要だよ」というフリをして寄ってきて干渉するようになるのです。

私はカウンセリングで、心のバリアを修復することをしています。例を用いるなら、幼い頃親に「あんたがいなければ離婚できたのに」と言われた心の傷を修復し、「親が離婚したかったので自分を邪魔に思った」ことから心を切り離し、「私が私を必要とする、私は幸せになって良いし、私の幸せのために行動する」という心の状態を作ります。心のバリアが治ると、セクハラやいじめに遭わなくなったり、そういう雰囲気になったら逃げて身を守ることができるようになります。そして、心のバリアが修復されると、「人でない何か」も離れていきます。今のところ100%、霊障が消えています。(ただし、霊障を受け入れてしまっていると消えません。それは心のバリアを修復しないでおく、という決断だからです。)

私が、通常のカウンセリングも除霊も同じことをしている、と言っている意味がお分かりいただけたでしょうか。心のバリアである境界線は、潜在意識によって形成・維持されています。潜在意識を扱い、境界線を修復できれば、「人でない何か」を相手にする必要はありません。

星読みや手相も、自分の外側のことです。気にするべきは自分の内側、境界線とその内側です。特別なこと、不思議なことも、「内側の飢え」「境界線の破れ」が呼び寄せていること。

私はオカルト現象が起きるとびっくりしますし、「人でない何か」を無視する気はありません。しかし、そのような時でも、まず見るべきは本人の心の痛みなのです。本人の潜在意識を扱えば良いのです。

 

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明けましておめでとうございます&長女の霊の目を閉じた話

明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。

元旦礼拝があったものだから、今日はうっかり日曜日かと思ったら木曜じゃん?と勘違いしていてさっき金曜日だ!と気づいた万紀子ですこんばんは。曜日って難しい。

元旦から理論的な思考を働かせたくないな、と思ったので、今日は長女の話を。

長女は今は高校3年生なのですが、2、3歳の頃はあらぬ方を指差しては泣き喚くことがよくありました。ガネーシャなど少し変わった姿をした絵や像、おたふくのお面もダメで、狂ったように泣き喚き、カレー屋さんにも行けなければ正月は外出できないほどでした。ただ、誰もいない壁を指差して泣くときは、私も悪寒がしたので、何かを見てはいたんだろうと思います。

次女が生まれて歩けるくらいになっても、長女は何かを見ては怖がり、次女は何も気にならない様子でニコニコしているのを見て、長女が可哀想になりました。よく分からないものに怯えるストレスで、楽しいことを吸収したり学んだりできないのは良くない。そう思ったとき、「霊の目を閉じる祈り」というものがあったことを思い出しました。

人が見えないものが見えるこの子から、見えることを奪うのはどうかと少し迷いましたが、必要ならまた開くでしょうと開き直ることにして、長女を呼び寄せました。手で長女の目を覆い、祈りました。

「天のお父様。あなたの愛する長女の霊の目を閉じます。どうぞ彼女が幸せな日々を送れますように、見なくても良いものを見なくて済みますように。主イエス・キリストの御名によって霊の目を閉じます。主の血潮が長女を覆い、見えなくても見えないものが手を出せないようにお守りください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」

祈りを終えて、手を離して長女が目を開けた時から今日まで、一度も彼女は何かが見えると恐れたことはありません。その時からピタリとこのことでは泣かなくなりました。他のことでは泣きまくりましたけどね。私がゾワッとして何か嫌な感じがする時も、長女は何も感じない様子です。うらやましい。

このように、幼い子が見えてしまって怖がるときには、霊の目を閉じるのが良いなと思います。長女が大きくなった今も変わりません。見えなくて良いものは見えなくて良いのです。