霊が見えない万紀子の除霊日記@函館

霊は見えませんがご依頼が来れば除霊しています。基本は心理カウンセラーです。パーソナルトレーナーもしてます。夫はキリスト教の牧師です。

浄化の塩と光

長い間、疑問だったことがありました。

盛り塩とか、塩を撒くとか、日本では塩を清めるために使います。聖書でも水は清めるために使っている記述はあるのですが、塩は使いません。その代わり、「あなたがたは地の塩です(マタイ5:13)」「あなたがたは世の光です(マタイ5:14)」と書いてあって、私自身が塩であり光であるというのです。

しかし長い間、私は怖い霊に脅かされてきました。見えはしなくても、聞こえたり、トントンと触られたり、白目をむいて神様を汚すことを言う人を前に全く無力だったり(もう25年も前の話ですけど)ざわ!っと鳥肌が立ち、恐怖に足がすくむのです。十字架やみことばも無力で、塩をかけたらいなくなるとか何か万能グッズはないの?と思っていました。私は塩でも光でもありませんでした。

だんだん境界線を整え(境界線についてはメンタルブログのカテゴリ「境界線」https://ameblo.jp/kamisamanorule/theme-10087461559.htmlに詳しいです。)いろいろ分かってくるほどに、恐怖も減り、目に見えない存在に対して力を発揮するというか、弾くようになってきました。

何気なくそんな話を経営合宿の時にしていたら、

「万紀子さんには、後ろ暗いことがないからなんだと思うわ。そして普通は、その境地に達する方法がわからないから、修行したり、型で縛ったりするんだと思う」

と言われて、ああそうかと閃いたものがありました。

旧約聖書では、汚れ(けがれ)を避けるためにたくさんのルールがあります。神様の御前に出るときや、特別な戦いの前に、身を清めるよう命じられているところもあります。神様は洗剤のようで、汚いままで近づくと分解されちゃう(死ぬ)んだよ、なんて子どもの頃教わりました。

清めと聖めの違いが、多分私が型に縛られずに力を発揮する理由に大きく関わっているのだろうと考えます。清めに、きれいにするという意味があるならば、聖めは、取り分けるという意味があります。私は確かに自分を取り分けるという作業をよくしています。

修行の意味はわかります。でも私には必要ないと感じるのは、修行によって得たいことを、別の方法で得ることができるから。修行(や◯◯してはいけないという縛り)は、きれいでいる、きれいにするという意味合いが強く、いやらしい言い方をすれば、型だけ守る抜け道はたくさんあります。

それに対して聖めは、とても抽象的ですが、自分の内側の純度を上げることなので、ごまかしが効きません。

それは、捨てるべきもの。と分ったなら、引きちぎってでも捨てる覚悟と潔さがないと難しいです。

そういう意味では、多くの修羅場を通されてきていますから、鍛え方が違うんじゃいとは言えるでしょうね。小さな汚れを匿うことが、命取りになることを実感として理解する機会は、多くの人にあまり訪れないようです。カウンセリングをしていても、そっか、この人はこれを持ってても影響が少ないから手放さないでいられるんだな、と思う場面はたくさんあります。そして私は、そういう本人が手放す気がないものを放っておきます。純度に重心を置くと耐えられない人も多いからです。

私が行っている、自分を取り分ける作業とは、内側の不純物を取り除き、外から悪影響が入らない線引きをしっかりして、自分の内側に純度の高い境界を作ることです。

除霊の際には、相手の境界線を先に引き、純度の高い私との接触で悪い影響を及ぼすものが押し出されるように仕向けます。塩や光の殺菌作用をイメージしていただくと良いでしょうね。

雑多なものに影響を受けやすい状態で塩が塩気を無くすというのは容易に起きることで、若かった私は、塩気をなくしていたために、脅かされていたのだということが今はわかります。

 

さて、純度。

何の純度を上げているかと言いますと、主への忠誠心と信頼です。万物を統べ治められる万軍の主の御心に従うひとつの駒であるという騎士のような心持ちとでも表現しましょうか。御心のままに。といつも胸に手を当ててこうべを垂れる者です。あくまでも自分の内側でですが、御心よりも自分を優先させるものを徹底的に排除します。これが聖めです。

私はめっちゃ好き勝手やってわがまま放題に見られるのですが、ここは1mmもずらしません。

純度を上げる条件を他人に向け始めた途端、一気に汚れの沼に沈みます。純度だだ下がり。御心を自分の希望と混ぜ始めると、これもわかりやすく雑味になります。この辺りが知性の出番でしょうね。この辺りが、教会がズレやすいけれど、人の群れの限界でもある、あまり触れない方が良い部分とも言えます。

つまり、この純度に関しては、非常に再現性が低くなります。ものすごく厳しくて、ついてこれる人がいないし、どっちかというと神様との戦いになるからです。この厳しさは、普通の人間社会での厳しさとは方向性が違います。これはもう選びの世界なので、選ばれてとっ捕まったらもう逃げ道はないっていうか、私も好き好んで選んだんじゃなくて選ばれて逃げ道潰されたクチですんで、なりたくてなれるのかは、わかりません。

 

日本の神道などの除霊は、取り憑いている存在の方を説得するのよ、と教わりました。あなたもつらいから取り憑いているんでしょうけれど、人に取り憑くのはおやめなさい、光のある方へ行きなさいと訴えるそうです。供養なども、この訴えの意味合いで行われるようです。

人間の側の境界線を整え、有無を言わさずいられなくする私のやり方とは随分違います。私は人に仇なす存在に寄せることは自分の純度が下がることに直結するので、関わりを持たないというスタンスです。

まあ結果が出るならどちらでもようござんしょ。

 

とにかく、地の塩であるとサラリと書いてあることの後ろ側には、壮絶な聖めの要求がありましたよということで、長年の疑問が解消されました。厳しい。

そんなわけで、お清めに塩は使いません。私が塩なので。